初めまして、天馬ハルです。
緊縛師を生業として緊縛ショーやAV業界で活動するかたわらで、横浜で「幻想縄会」という縄会を主宰しており、縄好きさん達が集まって交流したり、縄の勉強をしたり出来る場所を開いています。
今回はそんな私の自己紹介も兼ねて、私が緊縛についてどういう思いを抱いているのか?というコラムを書かせていただきます。
読んでくださる皆様には、ほんの少しの間お付き合いいただければと思います。
緊縛ライブという名称へのこだわり
私は緊縛において、相手とのやりとりを最も重視したスタイルを一貫して続けています。
緊縛ショーのお仕事では、相手との生のやりとりを見せたいとの思いから「緊縛ライブ」と題して緊縛をすることが多いです。
音源だけはライブ前に作っておきますが、事前に縛りの内容についての綿密な打ち合わせは行わず、縛る相手の体のクセ、縛られている最中の様子、会場の雰囲気…様々なところを見ながら何をやるかを決めていきます。(もちろん相手の苦手なこと、NGなことは事前に確認しています!)
この曲のここで絶対こうする!という筋書きがあるかたちではなく、その場その場での相手とのやりとりやライブ感をお届けする、という意味での緊縛ライブという名称にこだわりを持って活動しています。
ヴァンアソシエイツという制作会社より「TENMA」というレーベルで出させていただいている、私自身が監督のAVシリーズでも、緊縛ライブのシーンを必ず入れるスタイルは変わりません。
緊縛はコミュニケーションツール
さて、緊縛師として活動していると、「あなたにとって緊縛とはどういうものですか?」ということを尋ねられることがよくあります。
先述のとおり、私が女性を縛るにあたって「相手とのやりとり」というキーワードはデビュー当時から常に意識していることです。
というのも、私にとっての緊縛とは、コミュニケーションツールとしての側面が非常に大きいのです。
そもそも私が縄を握ったのは、素人男性が素人女性を縛っているのをたまたま見たのがきっかけでした。
特に話をしているわけでもなく、縄で縛られていくだけなのに、どんどん男性の意のままに女性が乱れていく。彼が女性を縛って遊ぶ姿は、言葉がなくても縄を介して会話をしているかのように見えました。
元々かなりの口下手だった私は、「会話そのものが上手でなくても、縄を通してならああやって遊ぶことも出来るのかもしれない!自分もそう出来るようになりたい、緊縛を始めよう!」と決意したのです。
今日に至るまでその感動は色褪せておらず、やりとり重視のスタイルは変わらないままです。
また、初めて緊縛を見た時「会話をしている」と感じたように、緊縛はこちらから一方的に感情を伝えるものではなく、相手からの感情も伝わってくるものであると、縛り続けながら常々思っています。
こちらに柔らかく体を委ね、縛られ、時には蝋燭や鞭なども受けながら、「苦しい・気持ちいい・痛い・楽しい・嬉しい・怖い・興奮する……」がこもった吐息、呻き、悲鳴、笑い声、声にならない声をこぼす女性たち。こちらを真っ直ぐ見つめる目もあれば、恥ずかしさからか視線を逸らす目もあります。中には縛られるだけで潮を吹く女性もいるほどです。
また、私生活で嫌なことや悲しいことがあった時、晴れない気持ちを抱えながら誰に愚痴を言うでもなく、それでも縄がかかった時だけ自分の気持ちに素直になって泣くことが出来るという方も。
緊縛は心の状態によっても左右される
このように様々な感情が縄を通してどんどん解放されていく様は、毎度圧巻という他ありません。また、相手を縄でもって支配し、それらを解放させていくのが楽しいと感じる自分もいます。
お互い普段それぞれに暮らし生きている人間だからこそ、たとえ同じ相手を縛っていてもその時々で反応が違い、伝わってくるものが違います。「脳内セックス」と言い表されることもあるほど、緊縛は体の状態だけでなく、心の状態によっても左右される。そこもまた非常に面白いところであると感じます。
声を出さない縄での会話、相手が何を感じているのか、溢れる感情を汲みとりながらのやりとり。普段の生活では包み隠している、言葉では言い表せないような感情でも、縄がかかると自分に素直になることが出来る。
そんな緊縛ならではの奥深い面白さを、私の縛る姿や縛られる女性の姿を通して皆さんにも伝えたい。縄を楽しんでいる方だけでなく、縛ったり縛られたりしていない方にもこの魅力を知ってほしい。そんな思いで緊縛師として活動を続けてきました。
さて、天馬ハルという緊縛師が考える緊縛観についてのさわりを書いてきました。慣れない文章でしたがお楽しみいただけたでしょうか?
私そのものでなくても、緊縛というもの、それを通して私が日々見つめているものについて、皆様に少しでも興味を持っていただけていれば大変嬉しく思います。